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「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(秀吉の辞世の句)


その言葉は、秀吉の辞世の句

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

でした。


人は、ただ生きているのではなくて、幸せを求めていきています。

コンビニで何を買うか、テレビで何をみるか、ネットででどんなサイトを

みるか「より苦痛なもの、いやなもの、浪費するもの」を選ぶ人はないでしょう。

そんな身近なところから始まって、幸せを求めるのが人間です。

その「幸せ」をものすごく、大雑把に分けると

「立身出世タイプ(いけいけゴーゴータイプ)」と「まったりタイプ」の

二つに分けれるでしょう。


秀吉といえば、「立身出世」のトップといってもいい。

すくなくとも、この土俵では秀吉には勝てそうもありません。


では、ここで簡単に秀吉の一生を振り返ってみましょう。

 秀吉は、尾張中村(名古屋市)の貧しい農家に生まれました。

 しかし「武士になりたい」の一心で16歳で家を出ます。
  
 貧苦の中で描いた幸福像は、(多くの人がそうであるように)
 
 地位や名誉、金や財産に満たされた生活だったのでしょう。

 織田信長の草履取から出発。
 
 サル、サルと嘲りを受けながらも、どんどんと頭角を現し、
 
 37歳で小谷城をもらいうけ、名実ともに、一国一城の主になりました。
 
 そして主君・信長が本能寺で、明智光秀に殺されたことを聞くや岡山から
 
 いち早く兵を引き、暴風雨の中を駆け抜けて、亡君の仇を討ちました。
 
 翌年、織田家の重臣、柴田勝家を賤ヶ岳に破り、権力を握った秀吉は、
 
 大坂城を築き、49歳で、念願の「関白」にまでなりました。

 (超省略ですが、ここまで涙ぐましい苦労があったわけです)

 しかし人間の欲にはきりがありません。
 
 財産にしろ権力にしろ、増えれば増えるほど、さらに大きなことを望みます。
 
 関白になった翌年、大坂城で、秀吉は、30余名の外国人を前に、こう豪語したと
 
 言われています。

「わしは、いずれ高麗(朝鮮)、明国(中国)を征服するため、海を渡る。

 国内の巨木をことごとく切り倒し、2000艘の船を造り、大軍を乗せて押し渡るのだ」


 では、秀吉は、どれほどの財を持っていたのでしょうか。

 彼の築いた大坂城は、総面積100万坪を超えていました。
 
 天守閣の瓦や壁に惜しげもなく金箔をほどこした黄金の城でした。
 
 城内には「黄金の茶室」があり、天井、壁、柱、敷居まで、すべて金。
 
 釜、茶杓、茶碗なども黄金で造られていたといいます。



  この茶室を目にした大名は、書状に、こうしたためています。

「すべて金で輝き、障子の桟までも黄金であった。その見事さは言葉に尽くせないくらいだ」

  また、京都には華麗壮大な邸宅「聚楽第」を築いています。
 
 銘木、名石を広く集めて造られ、大坂城をしのぐ「黄金の城」といわれました。


 多くの金山、銀山を自由にしていた秀吉は、
 
 「今や日本は、わしの意のまま。万とぼしからず。
 
 金銀をやたらたくわえておっても、用いざれば石瓦。
 
 皆のものに、ばらまいてくれよう」
 
 と、うそぶくほど財がありました。

  実際、天正17年5月20日、聚楽第において「金くばり」をやっています。
 
 黄金4,900枚、銀21,000枚……総額355,000両を、主だった臣下にばらまいたのです。

 秀吉が生前、息子・秀頼に遺産として与えた金銀目録によれば、
 
 大坂城の蔵には、黄金9万枚、銀16万枚を蓄えられていたといいます。

 こんな逸話もあります。


 ある時、秀吉が可愛がっていた鶴が、飼育係の不注意から、空高く舞い上がって姿を消してしまいました。

〝打ち首は免れない〟と、覚悟してお詫びに参上した飼育係に、秀吉は言ったといいます。

「鶴は外国まで逃げたのか」
「とてもとても、日本国より一歩も出ることはありません」
「それなら案ずるな。日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中に置かなくとも、日本の庭におればよい」

 秀吉はまた、各地から美女を集めています。
 
 正室「ねね」の外、側室が6人。
 
 1593年のフロイス記録文書によれば、
 
 
 「秀吉は、後宮に二百人以上の女をたくわえている。
  連れてきた女は、一日か二日、手元におき、飽きると追い出す。
  気に入った者は長く抑留しておく」とあります。

 まさに「わしの意のまま、万とぼしからず」、欲しいものは何でも手に入れ、好き勝手に振舞いました。


 それでも最後は

「露とおち 露と消えにし わが身かな
     難波のことも 夢のまた夢」


 
 秀吉は特別、と考えるのは早計だと思います。 
 
 スケールが大きいか小さいかの違いだけで、自分も、この辞世の言葉を
 
 思い知らされる時がきっと来る。
 
 この言葉は、稀有な人生を過ごした結果に吐露された、
 
 大変な言葉だと思いました。
 
 「へーあの秀吉がねー、知らんかった」
 
 で流せる言葉ではありませんでした。
 
 「一度しかない人生、絶対後悔のないものに」
 
 と思ってきたが、後悔のない人生を送るのは、かくも困難なものなのか
 
 と思い知らされました。
 

 
 今まで、成功者の代表とされていた人が、英雄と褒め称えられている人が、
 
 自分の一生を振り返ってこんな悲しい言葉を残しているのかと愕然としました。
 
 今まで学んできたことがいかに薄っぺらな、表面だけのことだったかが、

 痛切に知らされました。 
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