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仏教で「恩」とは?


 どのようなご恩を、聖人から私たちは受けているのか、まず知ることが大切です。
ご恩を知らなければ、ご恩を感じ、報いることもできません。

「恩」という字は、「因を知る心」と書きます。
  私が今日、このように生きていられるのは一つの結果ですが、それには原因が
あったのです。両親や、学校の先生、友人から、どれだけ多くのご恩をいただいて
きたでしょうか。

「おかげさま」というお互いへの感謝を失った昨今の風潮には、危惧の念を抱きます。
学校や社会を呪い、殺して復讐を果たすといった身勝手な事件からは、悲観的な
未来しか思い描けません。

 親や兄弟、妻子、友だちなどの有情(命あるもの)からも、太陽や水、空気と
いった非情(心なきもの)にもまた、多大な恩を受けて生きているのが私たちです。
一人で成長したかのように思うのは、なんと愚かでしょうか。

 ことわざに、

「恩を知らぬは畜生にも劣る」

といいます。犬でも、一宿一飯の恩を忘れません。

 あらゆるものの恩を知り、恩を感じ、恩に報いるよう心がけるのは立派な人です。
身近なご恩に感謝しつつ、私たち浄土真宗門徒は、もっと大きなご恩を、親鸞聖人から
受けていると知らねばなりません。

 それを、『御文章』五帖目十一通(御正忌の章)から、詳しくお話しします。

蓮如上人が、報恩講(御正忌)の心構えを正されたお言葉です。

「抑、この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり。その故は信心を決定せずば、
今度の報土の往生は不定なり。されば不信の人も速に決定の心を取るべし。
人間は不定の境なり、極楽は常住の国なり。されば不定の人間に在らんよりも、
常住の極楽を願うべきものなり。されば、当流には信心の方をもって先とせられたる、
その故をよく知らずは徒事なり。急ぎて安心決定して、浄土の往生を願うべきなり。
 それ、人間に流布して、皆人の心得たる通は、何の分別もなく、口にただ称名
ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき
次第なり。他力の信心を取るというも別の事にはあらず。『南無阿弥陀仏』の六の字
の意を、よく知りたるをもって信心決定すとはいうなり」

この蓮如上人のお言葉を通して、報恩講について学んでいきましょう☆



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☆報恩講☆


 「報恩講」は、親鸞聖人のご命日に当たる11月28日の、
  前後一ヶ月に開かれる法要です。

 「親鸞聖人のご恩に報いる集まり」のことで「御正忌」とも
  言われます。蓮如上人は

 「聖人のご恩を知らぬ者は、木や石と同様、心を持たぬ者である」
 と聞法を促され、「ただ酒・飯・茶なんどにて皆々退散」するのは
 「仏法の本意には然るべからざる次第なり」と教戒されています。


  私たちが真剣に仏法を聞き、親鸞聖人の教えの通りになること
 こそが、聖人が最も喜ばれ、受けしご厚恩に報いることになるの
 です。

  正しい親鸞聖人の教えを学び、真の報恩講とさせて頂きましょう☆

船戸山での講演会

 今日は一般在家での講演会でした☆

 前は亀田町でしたが、今は合併で新潟市です。

 亀田と言えば、亀田製菓が有名ですね。もちろん、今日も皆さんで頂きました。


 おっと、目的はお菓子ではありません、聴聞です!!!


  本日の演題は「悪人正機」でした。

 「悪人正機とは仏教のことです。」何も知られない方は「ええ??、どういうこと???」

 となるかと思います。もっと多くの方に真実知って頂きたいですね☆

何も変わらないようでいて本当はすごいスピードで変わってしまう「黒いシミ」スガシカオ


今日はスガシカオの歌からです。


黒いシミのように
ぼんやりとぼくらの心は
いつもくすんでいた
大切なことさえ
誰かに言われないと気づかない

去年と同じ ヒザのぬけたパチもののジーンズ
君が一人だけで 先に大人になってしまうのかな
たぶん 春の風とともに

ぼくらの毎日はすこしづつ 河の流れのように
何も変わらないようでいて本当はすごいスピードで
変わってしまう


・・・・・・・・・・・・・・・

心は「コロコロ」から名づけられたらしい。

確かに「盆の上のタマゴ」のようにコロコロよく

変わる、「女心と秋の空」とも「男心と秋の空」とも

いわれるように、すぐ変わってしまう。



方丈記の冒頭は有名です。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
 
 久しくとどまりたる例(ためし)なし。
 
 世の中にある。人とすみかと、また、かくの如し」
 

人の心も、人の住む世界も変わり通しの無常の世界ですね。

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(秀吉の辞世の句)


その言葉は、秀吉の辞世の句

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

でした。


人は、ただ生きているのではなくて、幸せを求めていきています。

コンビニで何を買うか、テレビで何をみるか、ネットででどんなサイトを

みるか「より苦痛なもの、いやなもの、浪費するもの」を選ぶ人はないでしょう。

そんな身近なところから始まって、幸せを求めるのが人間です。

その「幸せ」をものすごく、大雑把に分けると

「立身出世タイプ(いけいけゴーゴータイプ)」と「まったりタイプ」の

二つに分けれるでしょう。


秀吉といえば、「立身出世」のトップといってもいい。

すくなくとも、この土俵では秀吉には勝てそうもありません。


では、ここで簡単に秀吉の一生を振り返ってみましょう。

 秀吉は、尾張中村(名古屋市)の貧しい農家に生まれました。

 しかし「武士になりたい」の一心で16歳で家を出ます。
  
 貧苦の中で描いた幸福像は、(多くの人がそうであるように)
 
 地位や名誉、金や財産に満たされた生活だったのでしょう。

 織田信長の草履取から出発。
 
 サル、サルと嘲りを受けながらも、どんどんと頭角を現し、
 
 37歳で小谷城をもらいうけ、名実ともに、一国一城の主になりました。
 
 そして主君・信長が本能寺で、明智光秀に殺されたことを聞くや岡山から
 
 いち早く兵を引き、暴風雨の中を駆け抜けて、亡君の仇を討ちました。
 
 翌年、織田家の重臣、柴田勝家を賤ヶ岳に破り、権力を握った秀吉は、
 
 大坂城を築き、49歳で、念願の「関白」にまでなりました。

 (超省略ですが、ここまで涙ぐましい苦労があったわけです)

 しかし人間の欲にはきりがありません。
 
 財産にしろ権力にしろ、増えれば増えるほど、さらに大きなことを望みます。
 
 関白になった翌年、大坂城で、秀吉は、30余名の外国人を前に、こう豪語したと
 
 言われています。

「わしは、いずれ高麗(朝鮮)、明国(中国)を征服するため、海を渡る。

 国内の巨木をことごとく切り倒し、2000艘の船を造り、大軍を乗せて押し渡るのだ」


 では、秀吉は、どれほどの財を持っていたのでしょうか。

 彼の築いた大坂城は、総面積100万坪を超えていました。
 
 天守閣の瓦や壁に惜しげもなく金箔をほどこした黄金の城でした。
 
 城内には「黄金の茶室」があり、天井、壁、柱、敷居まで、すべて金。
 
 釜、茶杓、茶碗なども黄金で造られていたといいます。



  この茶室を目にした大名は、書状に、こうしたためています。

「すべて金で輝き、障子の桟までも黄金であった。その見事さは言葉に尽くせないくらいだ」

  また、京都には華麗壮大な邸宅「聚楽第」を築いています。
 
 銘木、名石を広く集めて造られ、大坂城をしのぐ「黄金の城」といわれました。


 多くの金山、銀山を自由にしていた秀吉は、
 
 「今や日本は、わしの意のまま。万とぼしからず。
 
 金銀をやたらたくわえておっても、用いざれば石瓦。
 
 皆のものに、ばらまいてくれよう」
 
 と、うそぶくほど財がありました。

  実際、天正17年5月20日、聚楽第において「金くばり」をやっています。
 
 黄金4,900枚、銀21,000枚……総額355,000両を、主だった臣下にばらまいたのです。

 秀吉が生前、息子・秀頼に遺産として与えた金銀目録によれば、
 
 大坂城の蔵には、黄金9万枚、銀16万枚を蓄えられていたといいます。

 こんな逸話もあります。


 ある時、秀吉が可愛がっていた鶴が、飼育係の不注意から、空高く舞い上がって姿を消してしまいました。

〝打ち首は免れない〟と、覚悟してお詫びに参上した飼育係に、秀吉は言ったといいます。

「鶴は外国まで逃げたのか」
「とてもとても、日本国より一歩も出ることはありません」
「それなら案ずるな。日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中に置かなくとも、日本の庭におればよい」

 秀吉はまた、各地から美女を集めています。
 
 正室「ねね」の外、側室が6人。
 
 1593年のフロイス記録文書によれば、
 
 
 「秀吉は、後宮に二百人以上の女をたくわえている。
  連れてきた女は、一日か二日、手元におき、飽きると追い出す。
  気に入った者は長く抑留しておく」とあります。

 まさに「わしの意のまま、万とぼしからず」、欲しいものは何でも手に入れ、好き勝手に振舞いました。


 それでも最後は

「露とおち 露と消えにし わが身かな
     難波のことも 夢のまた夢」


 
 秀吉は特別、と考えるのは早計だと思います。 
 
 スケールが大きいか小さいかの違いだけで、自分も、この辞世の言葉を
 
 思い知らされる時がきっと来る。
 
 この言葉は、稀有な人生を過ごした結果に吐露された、
 
 大変な言葉だと思いました。
 
 「へーあの秀吉がねー、知らんかった」
 
 で流せる言葉ではありませんでした。
 
 「一度しかない人生、絶対後悔のないものに」
 
 と思ってきたが、後悔のない人生を送るのは、かくも困難なものなのか
 
 と思い知らされました。
 

 
 今まで、成功者の代表とされていた人が、英雄と褒め称えられている人が、
 
 自分の一生を振り返ってこんな悲しい言葉を残しているのかと愕然としました。
 
 今まで学んできたことがいかに薄っぺらな、表面だけのことだったかが、

 痛切に知らされました。 
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